【人生ー丁寧・誠実・尊敬・感謝】④ 最後の「感謝」は神様、或いはこの地上に存在するもの全てに意義があり、価値があると理解して、「ありがとうございます」と感謝の意を示す心を持つ事であろうと思う。 どんな時にも「ありがとうございます。」と謙虚に言えた時は嬉しい。素直な自分自身に戻っているからである。人間は「自我」が強くて、なかなかそれを表現できない。 他人から素直に「ありがとうございます。」と言われた時は嬉しい。又この方は人間的にも素晴らしいと感じる。謙虚に自然に感謝出来る毎日でありたいと思うが・・・。 若い時はなかなかこの言葉が自然に出てこなかった。当たり前、強がり・・・要するに傲慢なのである。たかだか少し位出来ても小さなごみみたいなものなのに、人間は認められたくて、強がりを言っているに過ぎない。 他人の評価ではなく、自分自身が納得してこそ、本当に「感謝」が出来て嬉しく感じる。昨年あたりから、一日を振り返る時、3-5行で「今日の感謝」を書いて就寝する。すると気持ちが穏やかになり、心に平安があると、すーーと寝付く事が出来るようになってきた。これが嬉しい。 ようやく人生の佳境に入ってきたかなと自分なりに小さな成長に歓びがある。何でも受けいられる、「受容出来る」のである。今までは何か言われると直ぐに反論や、はんぱくしていたものが、そのまま受け入れて、一度無言で立ち止まる。そうして相手ががんがん言っている時に「待つ」技術を覚えてから、人間的に成長した気もする。 これは強さでなく、老齢故か、自分自身の弱さや衰えを感じているからかもしれないが、歳相応になってきた自分自身が嬉しい。これが晩年を迎えての「しなやかさ」の素晴らしさではないかと思う。 「ありがとうございます。」ともっと自然に心し、表現できる日々でありたい。今を生かされている事自体、「感謝」であると思う昨今である。
【人生ー丁寧・誠実・尊敬・感謝】③ 朝、Bedから起き上がる時に、体調が「普通」であれば、ほっとする。最近は「普通」である事が何より嬉しい。寝不足や前日に何か不安がよぎったままで就寝した時には、今日一日が大丈夫かな?と思うのと、普通に息をしてるな!今日もしっかりと生きれそうと思うだけで起き上がりが異なって来る。 最近は「穏やか」「落ち着き」「平安」・・・・という言葉に惹かれる。ゆるやかに歳を取って行くのはそよ風に身体がかーるくマッサージ?されている感じである。 激しいものではなく、【中立】が良い。最近は「豆腐」をよく食べる。この食品はそのままでも味噌汁に入れても、少し激辛で麻婆豆腐としても・・・なんでもその時の調子に合わせられるのが良い。 昔よく「京都風」?と言われて、薄味が良いと言われ、若い時はなんでかな?と思っていたのであるが、上品良く?なるとなんとなく「薄味」がよくなる?。 京都では広島の少し薄味の「ひがしまる」という醤油がかなりの人気と聞いた事がある。東京をはじめとする関東地域は、野田醤油、幾分濃い目の今のキッコーマンが普及していた。 若さや、競争を愉しんだり、物事を開発したり、エネルギーを要するものに取り組む時は塩分が必要となり、濃い目が良いのかなと思う時もある。日常の行動力が段々と少なくなるに従い、薄味になってきたのは、自然と思う様な気もする。先日、知人と中華街で、「ベトナムラーメン」を食べた。ベトナムはライスヌードルである。味も薄味でそれなりに美味しかった。「醤油味」ではないのである。さっぱりしている。 今日書きたかった「尊敬」から話題が「薄味」に変わってしまったが・・・。 ここ数回、丁寧・誠実と考えを書いてきた。これは基本に「尊敬」する、崇める、敬うという気持ちと連動しているのだろう。 日本では一木一草迄、神様の存在があると言われる。仏教的には、自然界の全てに「神様」が存在しているから丁寧・敬うと言う気持ちを持てと・・・・。人間に対して尊敬は使われるが、私は仏教的に、日常の全てに「尊敬」したいという気持ちが強い。 茶碗一つにしてもお箸一つにしても「ありがたい・・・」という気持ちで、食事すると美味しく感じる。日頃「当たり前」と思っている事に、感謝したいという控えめで、ある種の「尊敬」「畏敬」の念を持つと全てが上手く行く。 混んでいる電車で目の前の人が目的地に来て去って行き、偶然自分の目の前の席が空いたりすると、感謝と同時にある種の尊敬したくなる時がある。言葉としては言い方がおかしいが、なぜか知らないが、「尊敬と感謝」が似ている様な気がする。 尊敬は、素直さと謙虚さがあると自然と滲み出て来る。又傲慢であった若い時には、若さゆえの自信と無茶ぶりがあり、それが当たり前になっていた。尊敬に値すると言われてもなかなかその境地にならなかった自分自身、今となっては恥ずかしい。思い上がりも行き過ぎである。今そう思える自分が懐かしく、嬉しい。 弱者?を理解できるようになると、自分の成長を感じる。言葉多くより、「沈黙」の良さを理解してくるようになると、老いや、全てを「尊敬」出来る様になって来る。 歳をとっても毅然と「自主独立」されている方々に時々出会う。ああこうでなければという尊敬・畏敬の気持ちになる。人はそれぞれ良いものを持っている。出来るだけ、美点を見い出して、「尊敬」という学びを吸収したい。 尊敬は謙虚さと感謝を意識して過ごすと、自分自身が自然体として、万物全てを敬う気持ちが出て来る。今のその気持ちを尊びながら、与えられた今日一を神様に尊敬?と感謝しながら淡々と過ごしたいと思う。
【人生ー丁寧・誠実・尊敬・感謝】② 物事を「丁寧」にやるようにと脳に意識させると、不思議なもので、それなりにきちんとやれるようになる。ほんのわずかな事でも違いが出て来る。 今度は「物事」ではなく、「人」に対しては「誠実」でありたいと思うだけでも違ってくるだろうと思う。誠実と言う事は丁寧であり、又次の「尊敬」にも通じて来ると思われる。 日頃から物事に対して丁寧であるように心がけていると、自然に誠実になって来る。これらは何となく神様に対して丁寧に、崇めるという気持ちに繋がっているように思う。 日本人は宗教がないと言われるが、自然に対して、全てのものに敬う気持ちを持っている。人間は自我が強いが、もっと崇高なものに憧れを持って、謙虚に向き合う姿勢があれば、丁寧・誠実であろうとする。これは気持ちが良い物である。 万時に誠実であろうという人をみていると、こちらもそうありたいと思う。そういう意味では物事に対して丁寧でありながら、人間に対しても常に尊敬と誠実さを持っていたいと思う気持ちや、気付きが出てくると妙に安心感がある。 相手に対してよりも自分自身が嬉しくなる。丁寧、誠実さが言動に表れてくると自然に「上品さ」が少しづつ磨かれて来る様な気がする。そうして心に「余裕と落ち着き」が出て来るのが理解できる。 物を磨く、心を錬磨する事で、物は整然さとオーラ―が出て輝き始め、人間も誠実である言動で、磨かれて強く、優しく、美しくなって行く様な気がする。 [上品さ」は丁寧、誠実であろうと意識しているうちに自然に出来上がってくるのではないだろうか。多くの荒波に揉まれながら、上質なものだけが残って味わえのあるものになってくる。芸術家の器や壺や絵画を見ていてこれは味わいがあるなあーと感じるのは、その方の魂がその物体に表現されて現れるからであろう。 器や壺のように手で作られる物は全て心、魂の表現であろう。そうであれば、人間も美しく、上品であろうという意識、心、魂を持って、誠実であろうと心がけるだけで、そのようになっていくのではないだろうか。良く大志を持てと言われる。人間は大きなVisionを持てば、必ずその様になると。 全てに丁寧で、そうして誠実で向き合い、一日の終了には今日は丁寧、誠実で過ごせたと「感謝記」に述べられたら嬉しい。それは今日も落ち着きと平安を持って生きたから・・・という事になり充実感があるだろう。 毎日こうして意識しているうちに自然と「上品」になって行くのが理想であろうか。人間は弱いので、「意識する」と言う事から日々「学び」を持って、人間として、最高の器を創り出したいと思う。
【人生ー丁寧・誠実・尊敬・感謝】① 私は、「人生は芸術」と言う考えを持っている。時々早朝の散歩で、又何気なく「暮らし」の中にこそ、「芸術作品」が存在しているのではないだろうかと・・・。 今朝も朝3時過ぎに起きて、簡単に屈伸と書き物、書を読んで、朝5時きっかりに何時も歩く家の周りを30分程歩く。この時にふと「気付く」事が多い。それをいつも持ち歩くメモ帳に「単語」だけを書く。 そうして「想い」に耽る。今朝は歩きながら、今日一日という「作品」をどう描こうかと考える。ふと【丁寧】に生きよ!という言葉が出てきた。 品良く生きると言う事は、【丁寧】に日常の事を過ごす事であると。洗濯、掃除・皿洗い、床磨き・・・全てに「心」して、意識しながら過ごす事ではないかと・・・この小さな「気付き」が今日という「作品」を作るのだと。靴磨く、アイロンをかける・・・常に「愛情や思いやり」を持って、過ごせば、「気品」が自然と出て来ると・・・。 こういう想いこそが、晩年の年の功ではないかと思う。若年の時は「強さ」と急いで「早く」に興味があったが、「気品」は静かに時間や気持ちに「余裕」が持てた時にこそ、自然と出て来るものではないかと思う気持ちになる。 面白いのは色んな書を読んでいて最近気づくのは、この方が書かれた時はお幾つ位の時かな?と思う時である。最近では65歳過ぎて書かれた書は、洋の東西問わず、それなりの納得いくものが多い。日本では安岡正篤さん、西洋ではPeter Drucker氏を何度も再読すると成る程・・・と思う事が多い。 若い時に書かれた本は「論理性」は皆優れているが、熟考ではない。果実同様に、熟した果実は甘いし深さがある。人生それ自体も同様であろうか。そういう時に書かれたものは「本質や真理」に【深さ】がある。「上品」とは人間の「深さ」が一つ一つの言動に表現されて行くものだろうと思えてきた。 「上品」に辿り着く迄に全てに【丁寧】に接する事でないかと気づく。これは最高の気付きであった。今までは何気なく丁寧にやる、過ごす・・・と思っていたものが、この意識がきっかで生きる事にスイッチが入って、全ての動作に「丁寧」にしようという気になり、言動の整理整頓がより進みそうな気がする。 これから人生の佳境に入って行く。皿を洗う、アイロンをかける、味噌汁を作る、全てを「丁寧に」と言う想いで取り組みたいと思う。これを日々の「感謝記」に書いておき、もし来年生きていれば、一年後の自分自身に問いかけてみたいと思う。
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