【人の痛みに共感する・・・・】 歳を重ねる事は嫌な事ばかりではないと思う事がある。ある時期を超えてくると、人間が柔和で穏やかになり、落ち着きが出てくる。そうすると、ビジネスには段々と向かなくなるなあーと思う事に出会う。 スポーツやビジネスは前向きで、攻撃的である。特に前へ前へ・・・と進むものが勝利を得る確率が高い。第二次世界大戦の米軍のパットン将軍のように・・・。 私も米国に来てからはかなり性格が変わった。日本にいた時はかなり温厚な性格だったと思うが、ユダヤ人社会の中で闘っていくうちに段々とAggresiveになってきた。又マイナアーから出てくる方は常に自己主張する必要があるので、どうしてもそうなるのだろう。 戦後に欧州から逃れてきたユダヤ人は色濃く、又黒人の方々や最近では中国、中近東の方々も同様であろうか。(皆が皆ではないが・・・) 私も何もない所からの出発だったので、無意識のうちに、上記の方々の部類に入っていたのだろう。そうしてまたキッシンジャーさん同様に、攻撃的になっていった。自己の非を認めない欧米のやり方は今から思うと情けない。これを由とする文明や文化は劣であると思う。 もちろん人により優しく親切な方も多いのであるが・・・。そういう方は若い時に【痛み】を覚えた方か、心や金銭に【余裕】がある方であろう。皆学校や社会でそれなりに優しく・・・・という事は習うが、「実践」する人はかなり稀で少ない。 私自身もゼロからの出発であったので、殆どユダヤの方々のやり方が「正しい」と思ってやってきたが、最近はそうではないなあーと思う出来事に遭遇した。 今迄何ともなかったのに腰とヒップにかけて猛烈に痛くなり、歩けないのであった。もうこれで終わりかなと思って心中穏やかではなかったが、金子先生と言う鍼の方に出会いし、快復して歩けるようになってきた。5メートルも歩けない時に、グランドセントラル駅構内でしゃがんでいた時に「Are you OK?」と声を掛けてくれた人が数人いた。 なんと言う事もないが、この声を掛けてくれた方々には感謝であった。私自身はSelf-Helpの精神で生きてきたので、なかなか人に頼む事を由としなかった。 今迄人にお金を借りた事はない。(銀行ローンは別だが)又何か頼む事があれば、米国流に「お金」で解決してきた。それはそれでいいものだと・・・。昔公衆電話があった時に、大切な自己の電話帳みたいなものを忘れた。10分後に行ってみたが既になく、3時間位してあるユダヤ人の男から電話があり、お前の手帳を預かっているが・・・$300くれれば返すと・・言う。仕方なく$300を支払い手帳を返してもらったが、いまだに忘れない。(日本では殆ど無料で返ってくと言われているが・・・・) 歩けるようになって、今朝同じグランドセントラル駅で、小荷物を持ったおばさんが、かなり困った感じで、立っていた。不思議な事に、スムーズに声が出た。同じく「Are you OK?」と何かお困りなら・・・?という言葉が自然に出たのだ。それでそのおばさんの小荷物を駅の真ん中にある情報センターまで、一緒に行った。私自身も驚いた。自分が自然とこういう行為が何事もなく出来た事に・・・・。 おばさんは涙ぐんでいた。ああ今日は良い事をしたなと自分ながら驚いた。これは神様が私に「痛み」を与えて下さったからである。本当に感謝した。今日はこれを書きたくて、直ぐに書いた。自分の変化と神様からの【恵み】に感謝した。(今日一日はこれで由である。)
【ナポレオン・ヒル】ー自己啓発書を読む。 金曜日以降は気持ちがなんとなくウキウキする。木曜日・金曜日は出来るだけ人に会い、お互いの現状報告や、情報収集する日に充てているが、週末は本来はテニスと買い物か、少し高めの落ち着いたレストランに、夫婦で行くのがルーチンになっている。生憎最近は坐骨神経痛になり、少しづつは回復するものの、現状はリハリビリしか出来ないので、テニスの時間の代わりに、「自己啓発」の本を読んで、気持ちを鼓舞する様に心掛けている。 中学2年位の時に父から「ナポレオン・ヒル」の書を誕生日祝にもらい、かなり感動した事を覚えている。当時は日本の自己啓発本は与えらえていた「論語」や、安岡さんの「活学」等を読んでいた。それなりに理解はしたが、西洋人の哲学書とは違った意味で、感銘を受け、その後のアメリカ人の【自己啓発本】を読む嚆矢となった。 後ほどに聖書やJames Allen, Ralph Waldo Emerson等を読み始める基になり、又英語も比較的簡易であったので、高校生の時に英語で完読した覚えがある。 高校や大学の時は「生きる」と言う事に非常に興味があり、自己の進路にどんな書に出会うかで、人生の方向性や生き方が決まる。恐らく1940-80年代のアメリカで、心理学や、経営学に大きな影響を与えた書であろう。 肉体的や精神的に落ち込んでいる時に、ナポレオン・ヒルやサミュエル・スマイルズの「Self help」等を読むと病気の時の即効薬みたいなもので、かなり発奮する書である。「THE GOLDEN RULES OF SUCCESS」の中で、お金と人生の法則というのがあり、「成功の法則」の基本的な事を教えている。 *人間は自分で自分の運命を決定して行く/*自分の欲しいものは必ず得られると強く確信する。/*人間は自分が考えている様な人間になる/*逆境の中にはそれ相応かそれ以上の大きな利益の種がある。/*大きな成功は敗北感に屈してからしばらくしてやってくる・・・*あと1センチ余計に進む等の【黄金の法則】の言葉が述べられている。 こういう言葉を頭にInputするだけで、心に刺激を与え、活力が漲って(みなぎる)くる。言葉の力は凄い。良き師や良き人々を周りに置くと同様に、書として感銘、感動する言葉があれば、人間は生き返るし、勇気が出て前に進める。「人間は考える葦である」というパスカルの言葉も好きであるが、「人間は自分が考えている様な人間になる。」の言葉で一段とまだまだ頑張ってみようという事で心を鼓舞する事が出来た。 *「言葉の力」は凄い!。【人間力】を磨くには【書】を読み!【人】と会い、広く、深く【考】え、【実践】して、己を磨き続ける事であろう。
【神に祈ったか・・・】 私にとって、日々の生活は「神様」と共にある事である。毎朝15分から20分祈る。もう30数年近くになる。時々朝の祈りが十分に出来ない時は何か忘れものをした気がする。日常の習慣とは恐ろしいものである。 食事を忘れても腹が減ると遅くても食べる。これと同様に祈りを習慣にしていると、毎日祈らないと何か食べ忘れた気分になる。そんな時は、通勤中の中でもトイレの中でも祈る!。 そうすると何となく気分が落ち着くのである。毎日座禅や瞑想するのと似ているかもしれない。【祈り】や、【座禅】、【瞑想】はどんな多忙な時もわずか3分、5分でも大切である。このひと時、神様と共にあると思うだけで、勇気や希望が出てきたり、物事を第三者的に、【客観的】に考える事が出来る。 物事を為すには【集中と徹底】であるが、どんな時であっても「客観的」であるように心がけていなくてはならない。ある事に一所懸命にやっていてもなかなか上手く行かない時がある。これでもかこれでもかと諦めずにやり続けるが、上手く行かない。時間をおいて客観的にやったら上手く行く時もあるが、私はそういう時は【神様に祈ったか?】と自問する。神様に祈ったか?というのは、神様は私の完全なるパートナーだからである。常に神様を感じていると殆ど出来ない事はない。 若い時に、米国のレストランを買収した時にストライキに会い、会社運営がにっちもさっちに行かない時があった。20代後半の頃で、事業を始めて5-6年経った時に、最初のストライキに遭遇した。当時は神様の存在は頭の隅にはあったが、心から信じている感じはなかったが、止むに已まれず、ある日曜日に「教会」に行ってみた。 その教会はW57丁目にあり、古からの教会であった。その時の牧師さんの説教は、偶然にも困った時は、「神に祈れ!」であった。既に古希を迎えられて重鎮だったらしく、特別に説教されていたのだろうか。牧師さんの説教を聞いていたら心が軽くなってきた・・・・。悩みに悩んでいたからだろうか、彼の説教が「神様」に見えてきた。その時のフレーズの中で、【神に祈ったか!】という言葉がすーーと心に入ってきた。 不思議なものである。人間は究極になると「神様」に祈る。その祈りが真剣な時は必ず「祈り」はきかれる。これは神様頼りではなく、真剣で誠実に求めていれば、宇宙の神様が呼応して下さると言う事であろう。こういう事が何度もあった。いまだに解明できないが、常に神様が傍らにいらっしゃると思い始めてから、全てが上手く行く様になった。 面白いもので、ある時に大変な事に遭遇しても、これは神様からの「贈り物」と思った塗炭、心が軽くなり、艱難を乗り越えて行く事が出来た。苦難と思われる時もなんとか乗り越えて、数年後に気が付けば、それは必要であったと思えたり、それがあったから今があるのだと思える事が良くあった。 人間は誰でも心中に「神様」の存在を持っている。これは宗教と言うものではなく、心の中で、この神様が存在するからこそ、人間はこのような発展をすることが出来たのであろう。 神様とは?人間とは?と科学的に解明できないものと同様であろうが、常に神様と共にあると思うだけでも心強い。お金や人間は裏切るが、【神様】は良き事をしていれば、必ず助けて下さる。それには日頃から「良き」事をするように心がけていなければ、神様はそれに応えて下さらない。 毎日の祈りと共に、神様に喜ばれる日々の生活を送りたいと思っている。【神に祈ったか!】という強烈な言葉は私の中では忘れえぬ言葉である。
【身体のCare/心のCareを万全に・・・】 一日をしっかりと生きるとはまずは【身体と心】を万全にして、今日一日を明確な目的を持って生きる事であると思う。最近予期しない、病気と迄はいかないが、坐骨神経痛?らしきものに遭遇して、歩く事まで一時苦痛であった。今迄、健康が当たり前と思っていた事に、積年の疲れが出てきて?、十分に【心身の管理】がなされていなかった自分自身を反省している。 若い時は疲れたり、嫌な事があっても一日熟睡したら、頭の切り替えが無理なくできて、健康体になって、直ぐに前向きでチャレンジ出来た。お陰で、健康と言うものは当たり前と言う意識があった。 神様は必要な時に、艱難を与えて下さるといつも有難く戴いている。我々の心身は神様から生を頂き、社会の為に必要な存在としてこの世に送られたのであろう。 馬齢を重ね、心身の自由が削がれて初めて、自由や健康のありがたみを感じ取る事が出来る。痛くて歩けなかった時はそんな事は夢にも思わなかったが、痛みも和らぎ、なんとか歩けるようになって心身に「余裕」 神様は我々一人一人を愛して下さり、必要な時には【希望】を・・・、又ある時には【艱難】を与えて、警告を与えて下さる。今回は良き気付きを与えて下さったと感謝している。心や体をCareしていなかった私自身に気を付けよと暗示して下さったのである。生きるという事は常に「謙虚」と「感謝」であり、傲慢になりがちな人間に必ず、予告や警鐘を与えて下さる。それ故、何か悪い事が起こった場合は、必ず原因があるのであり、考えよ!と警告を与えて下さっていると受け止めている。 こういう時に人に対する優しさを感じる。歩けずにベンチに座っていたりしゃがみこんでいた時に、ほんのわずかな人が「大丈夫??」と声をかけてくれた時は嬉しかった。今回は怪我の功名ではないが、「学び」は人に優しく・・である。今度、同じ様な感じで蹲っていたり、他人(ひと)の手助けを必要としている方には積極的に声をかけたい。 学びは良き時も悪いかな?と思われる時も何時も何処にでもある。ちょっと立ち止まり、「考える」事であろう。嘆くのではなく、物事には必ず「原因」がある。 常に謙虚に、当たり前であろうと思われる健康を常に考えながら、「身体と心」を日々管理しながら、生かされている事に「謙虚と感謝」を持って日々を過ごして行きたいと思うこの頃である。
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