【優しさと気配り】 老いと言うものに感謝している。若い時は常に前に前に・・・・という気持ちが強く、物事が雑であった。最近は大谷選手のお陰で、「二刀流」と言う事をかなり「意識」するようになった。 「人生は芸術」と言う視点に立てば、強さと優しさの二刀流があってしかるべきだろう。良い作品はびっくりする程、斬新さをもっている反面、些細な気配りが至る所に見られる。そのバランスが「美」を作り上げて行く。 全ては「バランス」があってこそ、物事もスムーズに進む。人間関係しかり、物事の生業も同様であろう。会社や組織を運営する時も同様である。何かに特出している事は「強さ」と言う意味では、素晴らしいが、それは小さな【配慮や気配り】があってこそ、「強さ」が生きて来るのだろう。 又、「強さ」は「基本や原理原則」があってこそ、「強さ」は生きて来る。それには日頃からの【意識】付けが大切であろう。意識しないで何事も当たり前になってこそ本物であるが、若い時と違い、エネルギーが限られてくるのを感じる時は、小出しにして、小さな事の気付きと配慮に留意するようになり、日々の生活が愉しくなる事を発見するようになってきた。 こういう気配り、気づきが若い時から出来た人はラッキーであっただろうと思うが、終わった過去は戻らない。今更であるが、気づいた時から「意識」すれば、良いのであろう。 「意識」は物事を成功・勝利に導く。かなり重要である。例えば、「明確な目標を持つ!」この一つがあれば、毎日のTo do Listingに書くだけで、一日の過ごし方が異なって来る。私は早朝、朝、午後2つ、夕と分けて時間管理をするようになってから、小さな「成果」が出始めて、全てが「積小為大」に繋がる事をある時に気付いた。 人生は英語で言う、Compounding/「複利」である。お金を増やす時の語彙であるが、人生もある意味、「複利」であろう。毎日の小さな言動が積み重なって、「人格」や「性格」を作っていくのであり、正に日々の生活に「躾」と「良き習慣」がどれだけ実際に身に付いているかであろうと思う。 私は常に全てに対して「問題意識」を持つ様にしている。ブログを書くにも役に立っている。朝2時半頃に起床して約30分、瞑想なり、座禅する。最近の流行り言葉で言えば、[Mindful]な時間を持つと閃きや、気づきが急に思いつく。そしてそれを即、メモるようにしている。気付きは閃光で直ぐに消えて行く。それは暫し返ってこない。 こういった小さな気づきに関心を持って物事に向かうようにすれば、毎日の生活が愉しい。そのためには「健康」であり、熟睡・小さな運動・食事に目配りしながら、中庸を心掛けて、「適度」にある意味八分位の力で全力疾走したら心地よい。これらは生活の知恵であろうか。 かっての社会的価値観、「肉体労働」主体の時は残さずに食べる!と両親から教えられたが、最近は「過ぎる」事に要注意するようになって、お腹も小さくなって、ある意味、中肉中背になって、気持ちが良い。 馬齢を重ねて来るに従い、「強さ」ではなく、弱さと言う言葉ではないが、「優しさ」に目が行くようになった。又「小さな気付き」の大切さを気づくようになって、愉しみが増えてきたように思う。そういう意味では、歳を重ねて行くのは今迄、気付かなかった事に意識が向くようになった事に、自分ながら素晴らしいと思う。 その為には心身が「健康」があってこそ、他人への「優しさ」や「気付き」が出来るのだろう。「健康」であることが全てをクリアして行く。西洋で言う、「Helth & Wellness」と呼ばれる言葉が妙に浮かんできた。人生の根幹は「健康とお金」であると・・・・・。
【人間力/人格を磨く】 最近、益々「人間」とは何か?と言う事に関心を持つ様になってきた。又宇宙から送られてきた「人間」の役割は何か?と言う事である。社会を創造し、進化させるために我々は宇宙や社会の一員として存在するのであろうと。 そうであれば、何らかの形で、社会に奉仕したいし、役に立つものとなりたいと思う。それには「正しき良きもの」としての「存在」がある。 良きものとしての「人間」、そのためには「人間力」を十分に磨いて、「立派」といえる人物、「作品」を創り上げる事ではないかと思う。人間力を身に付けるには、まずは何が「正しい」かと言う事を知る事である。これは宇宙の法則から来るものであり、「歴史や科学」から導かれるものではないだろうか。 「人間」は科学を通して歴史を作ってきた。社会の進歩は人間の知性と技能が上手に織りなしてきたのであろう。多くの失敗を通して修正し、学びながら、現在に至る。それ故にこの「宇宙の法則」を通して、我々は今自分自身が生かされている事に感謝しながら、必要な役割を果たす事が大切なのではないかと思っている。 最近は「自己啓発」という分野や「心理学」等を通して、【人間】を語られる事が多くなってきた。それ故に、「人間」に関して以前以上に関心がある。 特に「人間力」とは?と言う事が良く問われる。私は人間力とは「求道心」ではないだろうかとおぼろげながら理解している。人間力は高みであり、厚みを求める。そして各々が持つ法則からぶれない事であろう。「基本と原理原則」に従い、それプラス、各々与えられた「才能・個性」を活かす事であると思う。 才能・個性だけでは何も出来ないが、きちんとした考えで、物事の原理原則を知って、「実践・行動」し、「結果」を出して、表現して行く所に人生の「作品」があるのではないかと思っている。 「人間」を造ると言う事は「作品」を作る事であり、それを【人間力】と作ると言うのだろう。色んな分野で「芸術作品」を作ると言う事に匹敵するのではないかと思う。この「人間力」という作品は、様々な分野での「作品」を表して行く。寿司職人、電気工事者、教員、大工さん・・・・・全ての職での「作品」である。 各々の分野で一流・立派と言われるには、基本に【人間力】にあるのではないだろうか。知識や技能を通じて日々の磨きが職を通して、自身も認められて行く。そこには自然と「人間力」も厚みが増していく。そして「仕事」と言う「作品」もよりバランスの取れた「美しい」物となる。 最終的には【美しい】と思われないと一流作品ではないだろう。日々研鑽して知的で、美しい物を磨き上げようと言う「精神」が大切である。それにはストイックな迄、【知と美】を追い求めないといけない。 芸術は「知と美」の探究であり、日本的には【求道】であると思う。美術や音楽は【知と美】の追求であり、創造でもある。美術や音楽や経営・・・と同じく、「人間」を作る事こそが人生の目的ではないかとつくづく思う。 「人間力」を高める事に気が付き始めて、日常の中での「美意識」が強くなってきた。全ての事柄に「美とは何か?」を追及している自分があり、最終的には「人間力」を高める事が、究極の人生道ではないかと今、思う。
【心の余裕を持って、泰然と生きる】 歳を取ってくると嫌な事も多いが、一方では楽な気持ちもある。現役で戦闘していた時は「競争」のまった中にあった時は、速く、急げで・・・あって何かに追われている様なそそくさがあった。 セミリタイアになって、いつまでにやらなくてはいけないという「納期」みたいな期限付きはある程度緩和されて、自分なりのやり方で、物事を処していく事を覚えると、余り怖い事や、恐れがなくなって来た。 かと言ってやらないということではなく、心に「余裕」が出て来る。人生をかなり目一杯やってきたので、ある程度の事は社会や宇宙の【法則】に従うと殆ど解決するという不思議な自信?みたいなものが生まれる。 こうすればこういう「結果」になるという事すらだいたい7-8割は読める、洞察できる。「心の持ち方」「心の置き所」「心の余裕」は物事を受け入れて行く、そして「寛容」である事だろう。 自然の「原理原則」に従って物事を解決して行く。殆どは一度か二度、既に経験していることが多い。初めて遭遇するかな?と思う事も大体の予測は付く。又上手く行かなくてもカバーできる範疇にある。 一番大切な事は、「受け入れる」「現実を見る」「事実関係」そして、全て出来るだろうと言う前向き、Positive な気持ちを持って、一段引いて考えると大体上手く行く。こちら主導ではなく、相手主導に合わせる51-49であったものを40-60位にする、言い争いにならず、上手く物事が進む。これでなくてはならないと言う事は5つの内一つ位である。それ故、自分自身の意見を持ちながらも無理せずに、相手にあわせるように、「そうですね・・」「成る程・・・それがいいですね」とやると概ね上手く行く。 ある人のおばあちゃんがおじいさんが威張りきっている時は「そうかい・・・そうかい・・・」と相手に合わせていて、最後はおばあちゃんの手のひらで、言うなりになったそうだ。最近、私もそれに見習って、そうですね。其れで行きましょうと相手主導に合わせるになってから物事がスムーズに行くようになった。これは人間の「知恵」だと思う。若い時はLeadershipを取らないといけないと言う変なアメリカ式かぶれでやり抜いて、かなり失敗した。勿論ある時はボスとして当たり前であったのだが・・・・。 馬齢を重ねての晩年は意固地でなく、淡々と相手に合わせる「術」を覚えてから、人間関係がスムーズにいくようになった。どんな問題が来ても「受容」する姿勢である。それ故、心は「余裕」と「泰然さ」がある。そうなると自然と柔和で、穏やかになり、「中庸」の精神が知識としてだけでなく、日々の「実践」に活かされて行くのが嬉しい。 晩年は【穏やかさ・平安】が一番である。淡々と余裕を持って生きたいと言う気持ちも心の片隅にはある。一日を最善を尽くしながら、心に「余裕」と「穏やかさ」をもって丁寧に過ごしたいと思うこの頃である。
【神様から与えられた命、精一杯生きよう!‼】 【命】とは不思議なもので、肉体の減退はあっても、精神や魂は無限に強い。これはそれぞれが持つ「気持ち次第」であろう。100歳になってもまだ生きようと言う「気持ち」があれば、人間は永遠に生きれる。 人間には【希望】というとてつもないエネルギーを産み出す「力」が備わっているからだ。宇宙や自然をコントロールする神様が私達を必要として地上に送り出してくれた以上、責任がある。 それを生かすかどうするかは、それぞれが「生きよう」という活力と「想い」があるかどうかによるだろう。生きている限り、家族や、知人や・・・諸々の人に歓びを与える。 良き事をして最善を尽くし、一生懸命生きようとしている姿にも周りの人に活力を与える。過去はもう既に終了したのである。「今」と「未来」が人生である。終わった事は反省であっても、生きる活力にはならない。【今】をしっかりと生きる事が「次」に連なる。 過去を振り返れば、多くの失敗の後に、忍耐強く、待ち望んで頑張っていた時、何時からか何処からか、援護が来て差し伸べてくれたではないか。私は当時、英国の首相のチャーチルが、第2次世界大戦中にドイツのヒットラーからロンドンに攻め入れられた時に、ラジオで英国民に「Never, Never, Never give up・・・・・!!」という彼の命を懸けた声明に感動する。 生かされている以上、99%が上手くいかなくても1%の【望み】や希望があれば、チャンスはやって来るのである。決して投げ出したり、諦める必要はない。ひたすら神に祈り、我慢すると内部から生きろ!という声が聞こえてくるだろう。肉体は疲弊しても、精神や魂があれば、人間は幾らでも立ち直る事が出来る。 かって知り合いの方が「癌で余命3か月でしょう・・・」と言われた時に一緒に祈った事がある。彼はそれ程信仰深い人ではなかったが、人間ギリギリになれば、神にも助けを乞うしかない時が来る。彼はあの当時、多分40代半ばであったような気がする。子供さん2人、小学生であった。事業のストレスで悩み過ぎ、髪が薄くなり、気持ちもかなり弱っていた。平常は強そうに見えたが・・・・。 私はその時に彼と共に教会に行って祈った。彼はかたくなにその後に及んでも、拒絶していたが、奥様に言われて嫌々しぶしぶ祈った・・・・。不思議と数日してから何かに押されて自然と後ろから誰かが「気」を与えてくれたと言っていた。かたくなでなく、「素直」に受け入れたからであろう。 なんと3か月後に死を宣告された彼の心臓から黒い影がなくなっていたではないか。私も同行し、当時3か月前のレントゲン写真を見せてもらったが、ほぼ真っ黒であったものが、綺麗になくなっていた。マウントサイナイ病院での経験豊富な医師の方であったが・・・・。担当医はあまりの変化に驚嘆していた。 そんな彼は今は78歳でぴんぴんしている。当時を思い出すと笑が込み上げて来る。爾来自分だけの力ではなく、多くの人のサポートで命を生かされている事を悟った彼は、今は日本で、障碍者の方の為に、車椅子を贈る活動に人生の後半を捧げている。 人間は神様から貴重な「命」を与えられている以上、諦めず、最後までベストを尽くして【生きる】事こそ、我々の人生の【使命】ではなかろうかと言う気がする。神様がお前はもう天国に召すよ!と言われる迄、精一杯生きるのである。!!。それこそが【人生】であろう。
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