【生きる・・正しさ・・哲学を持つ】 生きるとは「宇宙の法則」に則っとり、正しく・・・自分なりの【哲学】を持つ事ではないかと思う。 国家のVisionを持つと同様に、個人であっても自分はどんな「生き方」をしたいのかを自分なりに持つ事が重要だろう。これは常に「正しさ」「強さ/優しさ」「美しさ」を持つものであると思っている。 特に「正しさ」と「美しさ」は真ん中に来る。【正しさ】が軸となり、全体が美しく見える事である。心の内と外観を問わずである(外柔内剛)。私は絵は描けないが、SotherbysやCristies のオークションを見に行くのが好きで良く観に行く。稀な物は高いが、多くの絵の中で、「基本」が出来ており、「整然」としてバランスの取れた作品には「美しい」と感じるものが多い。これは恐らく、人間も、生き方もどうようではなかろうか。 美しさの中には芯となる凛とした「正しさ」が常に存在する。最終的には「人生はArt(芸術)」であると思う。まず思う事。こういう絵を描きたいと思わなければ、絵は描けない。それと同様にこんな「生き方」をしたいと思わなければ・・・生き方が定まらない。 色んな方と日々出会う。男女問わず、人種問わず、「正しく」生き、凛とした人は絵の様に輝き、光があり美しい。今の日本の首相をみていると国家観がない。日本をこのように導いて行きたいという「哲学」がないのが残念で仕方がない。問題が起こるたびに是正ばかりである。こうしたいという哲学があれば、人は付いていく。恐らく勉強とこうしたいという明確な意識の欠如と、向かおうと言う姿勢が、不足しているのであろう。 どんな組織であれ、Topに立つ方は「正しさ」に基づいた、【哲学】を持っているものである。私はそんな人に惹かれる。今は「哲学」を持つとは古い生き方かもしれないが・・・・。現代風に言えば、「哲学的な感性を持つ」と言った方が良いのかもしれない。 ただ表現はソフトな言い方が大切であり、語句や語彙選びは重要である。文章の上手い方は適格な「語彙」を用いる。日本語/Englishを問わず。 コアは凛とした正しさを持ち、外観は柔和で内側は剛毅で、全体として「清潔で品」を持つ良き人間でありたい。これも一つの生き方であると思う。
【国家主観/哲学(信条)・経済・教育・・・・】 今、日本では自民党の総裁選が争われている。面白いのは9人もの候補者がいて、一人以外に、自分なりの考えや国家をこういう風に運営したいという考えを論理的に又詳細に考えている人がいないのが残念である。 他の国に遠慮したり、自分の生き方、哲学(信条)を持っていない方が多すぎる。これで果たして国家を運営できるのかという疑問が湧き上がる。 我々すらもどの様な人生を送るかという事を考えて生きるし、会社経営をする時はこうしたいという思いを持って経営して行く。物事はまず自身の「生き方」にある。自分の人生は多くの人のサポートがあって成り立つが、まずは自分自身どのように「生きるか」が問われる。 幾つからでも良い。自分はこうして行きたいという「指針」は持つべきであり、その後は「学び」ながら修正を加えて行けば良いのである。まずは基本と言うか「軸」が無くてはいけない。私は【正しさ】に基本を置く。私なりの「宇宙の法則」であり、「歴史と科学」からの法則である。 良く言われる「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」と。経験も悪くはないが、歴史と言う「事実」と「客観性」から物事を「科学的」に判断していきたい。全てがこうであると思わないが、時には「直感」が鋭く働き、論理よりも鋭角の時があるが、概ねは、【基本と原則】に委ねられた「論理性」や「客観性」は的を得ている。 それ故に多くの書物からその「法則性」を学び、自分自身の気質や才能に合わせて、自己の「哲学・信条」をしっかりと持って、日々の考えや、行動に落とし込んで行く事が重要なのであろう。 「歴史と科学」/「自己の哲学」があれば、自分は如何に生きるかがわかって来る。そうして家族を持ち、その「責任」を果たすために「働く」。この世の中での「経済」は重要である。自分自身の「哲学・信条」を持ちながら、「教育」に励み、「経済力」を高めて行くのが最善であろう。 「経済」自体が主ではないが、自由主義、資本主義社会では「経済力」は生活の大部分を占める。その前に自分自身でも、国家でもどういう方向性を持って「生きるか」「指針を示す」という事が必要であろう。 それ故、私は「生き方(哲学・信条)」「経済」「教育」は人生を生きる根幹だと思っている。この3つの分野は生きている間はEndlessに精進して行くのが私は望ましいと思う。この分野での「高さ・深さ」こそが「人間」として立派に人生を終えるのに適しているのではないか。日々これらを「念頭」に置きながら研鑽に励んで行きたいと思う。
【人間力を高めるー教育・躾・モラル】 【人間】を作るのは、「教育・躾・モラル」のではないかと思う。これらをバランスよく、力強く、深く、美しく磨ききった所に「人間」としての【人格】が出来上がるのではないだろうか。 私は全ては「宇宙の法則」に則り、何事も作成されていると考えている。最終的には宇宙の法則はバランスの取れた「美しさ」にある。外面、内面双方にあり、内側が向上してくると顔や眼光、姿態に表れて来る。森鴎外等の写真や佇まいの締まりのある顔と知的な風貌が急に思い起こされた。 「教育」をしてくると顔に締まりが出て来る。そして眼が輝き、落ち着きが出て来る。不思議な事に、容姿も皆、「中肉中背」なのである。痩せても太ってもいない。程ほどの良さを保っている。人間を造るのは「教育」であり、「躾」であり「モラル」と思う。 全ての基本は【教育】にありだが・・・・。【教育】は「知識」と「人間性」を磨く事にある。人間性を磨くには、「躾」であり「モラル」を高めていく事であろうか。 「躾」は日々の小さな行動が「整然」とした【美】にある。物事の全てが整理・整頓されていて清潔である。そうした一人一人の【民度】が国民を作り、国家を形成して行くのであろう。 民度を高めるには「経済」が必要であり、ある程度の「経済力」の上に、「教育・躾・モラル」が形成されて行く。経済力を高めるには【教育】が欠かせない。どの分野であれ、「一流」になる事を目指す。その中には【深さ】と【高さ】と【強さ】がある。自分に与えられた「仕事」を通して、【人間力】を磨いていく。 その過程で、「躾」と「モラル」を高めながら、人間として尊敬に値するものとして、存在出来る確固とした「人間力」を磨く。そして芸術作品と同様に「人間芸術作品」を創り上げる事にあると思う。 私は「人生は芸術」であり、全てが「宇宙の法則」から成り立ち、「美しい」と言われるものを創り上げていく作業が「生きる」事の楽しさや深さに導くと思っている。 教育を高め、日々の生活はDiscipline,日本語では「躾」という言葉が見合っていると思うが・・・、そしてモラルを持って、「人間力」を高めて行く事が、神様から与えられた「人生」ではなかろうか。 何処迄高められるかは、明確な人間像を描きながら、意欲と情熱を持って、【人間芸術作品】を作り上げるのに日々「努力」して行きたいと思う。
【中庸・和する・穏やかさ・・・・】 晩年になって来ると、「中庸」という言葉に惹かれる。本来の意味は儒教の四書からのもので、孔子か弟子だったか・・・その後荀子がまとめたものだっと思うが、かなり前に読んで、惹かれた思いがある。若い時はなかなかこの漢字の意味するものは頭で理解出来ても、腹に落ちてこない。 物事が客観的に見えるようになって、「中庸」の良さが理解できるようになってきた。若い時は積極的で、拡大主義に走りがちで、広く浅くに・・・になってしまう。「深さ」がないのである。【深さ】は文明や文化がかなり進んできてたおやかさ、熟成・・落ち着きが出てきて昇華して行くものであろう。 近代の西欧の文明や文化をみていると、1700,1800年代は勢いがあり、まさに若さでぐいぐいと攻めている時だった思うが、1945年以降になって、世界が落ち着いてくると攻めより、穏やかさが良くなってくる。 日本も1960ー1990年位はまさに攻めの時代であったし、それ以降の30年のなだらかな感じでの生き様もそれなりに良かったと思う。大きな流れでは徳川期の260年が「日本」を作ったと言っても過言でないだろう。あの豊饒の落ち着きのある時がその後の明治以降の150年を作ってきたのであるから。 世界を見渡しても約5000万人以上の国を「国家」として見た場合は文化、民度では今の日本は世界のTop3に入るだろう。特に「民度」が優れていると思う。ただ穏やかで、秩序や清潔さを持ちながら、整然とする社会の中での「中庸」は、物事を「客観的」にみてもバランスが取れていて「美しい」。 晩年になると【洞察】が鋭くなる。物事を一歩引いて、或いは俯瞰してこそ本質や真実が見えて来る。これは私が思う、「宇宙の法則」であろうと思っている。 物事の原理原則・法則が見えてくると、凄く楽しい。中庸であり、和であり、穏やかさや、落ち着きである。無理せずに、今ある事にゆっくりとそして確信に満ちた中で、全てを受け入れて行く。たおやかな流れの中の中庸に日々惹かれる。こんな時に、心身が健康であれば、「晩年」もそれなりに良いものだと思う。週末は今まで読めなかった「書物」をゆっくりと紐解き、物事の原理原則&体験・経験を推考して、「深さ」を追及したい。 「求道心」と「思考の深さ」から【中庸】を楽しみたいと思う。
※ 物件によっては、既にレントされていたり、オファーが入っていたり、或いは売れている場合もありますので、ご了承ください。