【身体のCare/心のCareを万全に・・・】
一日をしっかりと生きるとはまずは【身体と心】を万全にして、今日一日を明確な目的を持って生きる事であると思う。最近予期しない、病気と迄はいかないが、坐骨神経痛?らしきものに遭遇して、歩く事まで一時苦痛であった。今迄、健康が当たり前と思っていた事に、積年の疲れが出てきて?、十分に【心身の管理】がなされていなかった自分自身を反省している。
若い時は疲れたり、嫌な事があっても一日熟睡したら、頭の切り替えが無理なくできて、健康体になって、直ぐに前向きでチャレンジ出来た。お陰で、健康と言うものは当たり前と言う意識があった。
神様は必要な時に、艱難を与えて下さるといつも有難く戴いている。我々の心身は神様から生を頂き、社会の為に必要な存在としてこの世に送られたのであろう。
馬齢を重ね、心身の自由が削がれて初めて、自由や健康のありがたみを感じ取る事が出来る。痛くて歩けなかった時はそんな事は夢にも思わなかったが、痛みも和らぎ、なんとか歩けるようになって心身に「余裕」
神様は我々一人一人を愛して下さり、必要な時には【希望】を・・・、又ある時には【艱難】を与えて、警告を与えて下さる。今回は良き気付きを与えて下さったと感謝している。心や体をCareしていなかった私自身に気を付けよと暗示して下さったのである。生きるという事は常に「謙虚」と「感謝」であり、傲慢になりがちな人間に必ず、予告や警鐘を与えて下さる。それ故、何か悪い事が起こった場合は、必ず原因があるのであり、考えよ!と警告を与えて下さっていると受け止めている。
こういう時に人に対する優しさを感じる。歩けずにベンチに座っていたりしゃがみこんでいた時に、ほんのわずかな人が「大丈夫??」と声をかけてくれた時は嬉しかった。今回は怪我の功名ではないが、「学び」は人に優しく・・である。今度、同じ様な感じで蹲っていたり、他人(ひと)の手助けを必要としている方には積極的に声をかけたい。
学びは良き時も悪いかな?と思われる時も何時も何処にでもある。ちょっと立ち止まり、「考える」事であろう。嘆くのではなく、物事には必ず「原因」がある。
常に謙虚に、当たり前であろうと思われる健康を常に考えながら、「身体と心」を日々管理しながら、生かされている事に「謙虚と感謝」を持って日々を過ごして行きたいと思うこの頃である。