【愛と礼(尊敬)を持って接する・・・】
不思議である。週末の金曜日以降になると、なぜか心が落ち着く。自然体になるのである。月曜日から金曜日の午後3時過ぎ迄は何か仕事感覚が抜けない。これが長年過ごしてきた「習慣」なのであろうか。
帰宅して2-3時間休むと「週末」の穏やかさと落ち着きが訪れて、「心の余裕」が出来てくる。起き上がりの20分は簡単な「瞑想」をすると、心が真っ白くなるのがわかる。ああ気持ちの切り替えが出来ているなと感じる。
瞑想が終わり、ふと【愛と礼(尊敬)】と言う言葉が頭に閃いたので、何となく書きたくなった。日本語の愛、漢語の恕の精神、西洋のlove・・・人間の優しさや思いやりを表す言葉である。人間は言葉で反応する。それ故に言葉は重要であり、注意深く、丁寧に選ばなくてはならない。
多くの書物を読んで来て感じるのは日英漢とも語彙を知り、それを何処迄使い切るかである。日本語では「安岡正篤」さんが一番であろうが・・・。昔日本史を中高で学んだ時、西川・・・という東大教授が書かれた文章に惚れ入った事がある。文章から愛が感じられ、言葉の一つ一つが正確で適切な事であった。最近の東大の教授には残念な事に「深さ」を見る事が少ない。
残念な事に英語での深さ迄はよく理解出来ないが、今迄読んだ中では、Ralph Waldo Emersonの語彙選びが素晴らしかったと記憶している。高校の時に短文で共鳴して、「The Major Prose」を読了する迄、ほぼ20年を要した記憶がある。一日約2ページしか進まなかった。前置きが長くなってしまった。
「愛」は人間も動物も、草や木や、風や水や、この自然界に存在する全てのものが持つものであろう。こちらから「愛」の気持ちを持って接すれば、全てが反応してくれる。全てが伝わるのである。ラーメンを作る時も、美味しくね!とささやきながら作ると美味しいし、床掃除する時、キチンやトイレ掃除する時に、私は「綺麗になってね」とささやいて掃除すると本当に綺麗になるのである。
自分自身の中に「愛」が存在すれば、それを人にも物にも「ささやく」だけで物事は「応対」する。これが不思議なのである。こういう静かで落ち着いた時間の時は「心に余裕」があるからか、これが出来る。愛の行動がもっと日常的に発揮できると嬉しいが・・・。
愛と言う事であれば、父や母に怒られたことはなかった。両親はたおやか、穏やかで愛のある人間性を持っていた。両親とはこういうものだと思っていたが、大学生になり、社会に出てみるとこれは「凄い」事であると後に、認識した。特に父からは「背中」から学んだ。余り多くは語らなかった人だが、人に接する時も「愛」が感じられた。又母は与える人であり、庭で色んな野菜を作っていたが、季節ごとの野菜や果物を近所の人々に与え続けた。
これは私にも無言で伝わり、【与える事】が当たり前で、ある種の趣味になった。与えた分、時差で必ず自分に返ってくるか、子供や孫に伝承して行くのだろう。恐らく私や子供達が此れ迄、上手く育ち。過ごせたのも両親や祖父母の「愛」のお陰だと思っている。
【愛は与えるもの】である。見返りを期待しないで、与え続ける事であろう。両親のお陰で、私も子供達を叱った事はなかった。(おそらく両親も私達も夫婦では葛藤があったかもしれないが・・・・。)
愛は与えるものであるが、日本的な礼(尊敬の表し方)も好きだ。相手を愛すると同時に尊敬する事を形として表すからである。これをもっと上手に表現して行きたい。素直で、謙虚で、感謝の気持ちを持ち続ける事で、いざとなった時は「礼」を尽くせるものとしたい。
日本の【礼】は相手に対する「尊敬の念」を示すからである。【尊敬】とは【愛】でもある。今後は愛の深さをもっと知り、礼(尊敬)は態度で示せるように生かされた一日一日を大切にしたいと思う。